■ ねずみに始まり、ねずみに終わる
藤田 博
望月新三郎文・二俣英五郎絵『ねずみ にわとり ねこ いたち』(ポプラ社)は、「ねこと ねずみが まだ なかが よかった ころの はなし」です。ねことねずみは仇敵、「なかよし」などではあり得ないのを知っている、知っているからこその「はなし」です。二階のおそなえ餅を食べようとした「ねずみ にわとり ねこ いたち」が、階段に並んでその順に受け取ることに。階段という高さ、後先の順番は、語呂合わせのためだけのもの、高さはあっても高さの違いはなく、順番はあっても順番の違いはありません。ねずみが小さい方のおそなえ餅を「しっぽに からげて ひっぱって」きて、順に手渡していきます。二つ目は、「おもたくて おおきくて、ようやくひきずってき」たものの、「てが すべって、ごろん ごろ ごろ ごろ。」頭に当たったいたちは、「お お いたち お お いたち」と泣きました。「にゃんともない にゃんともない。」といたちをなぐさめるねこ、「と とっかしいからだ。と とっかしいからだ。」とねずみをはやし立てるにわとり。ねずみは頭に手をやって、「うん ちーっと ちゅういが たらなかったかな。」一番下のいたちから、ねずみへと戻ってくる形になっているのがわかる、同時に、ねずみの尻尾に始まり、頭に終わるのがわかるのです。
丸くなったねこの上に丸くなってねずみは眠ります。「なかよし」のねことねずみへと戻るのです。おそなえ餅は年の始めのもの、丸いおそなえ餅をねずみが引く、そこから始まったのは、丸と始め、双方の意味があってのことなのです。
「かわいい むすめを ねずみなんかに やれっか」、縁談を持ってきた「しんるいのおじさん」に「おとっつあん」はそう言います。やれるとすれば、「せかいで いちばん えれえむこどのだ。さしずめ おてんとうさまかのう。」おじさんは、おてんとうさまのところへ出かけます。「むすめを もらって もらえめえか。」おてんとうさまは言います、「せかいで いちばんなら くもどんだ。くもが でてくりゃあ、わしが どんなに がんばっても たちまち ひかりは うすれてしまう。」おじさんはくものところへ出かけます。「せかいいちは かぜどんだ。どんなに わたしが がんばっても、かぜが ひとふきしたら、てんにはいられなくなる。」その後、風のところに。その後、壁のところに。壁は言います、「せかいで いちばんは、ねずみに きまっとる。おれが いくら がんばってもよ。ねずみに かじられたら あなが あく。」「せかいで いちばんえれえのは、おらたちってことかよ」、そう言っておじさんは戻ってきます。
回り回ってねずみへと戻り、ねずみはねずみに嫁入りするのです。「ゾウとねずみ」、「ライオンとねずみ」の組み合わせに見られるように、小さく、弱いものの代表であるねずみが一番強い、さかさまが生まれています。さかさまは元へと戻る円環と一つのもの。岩崎京子文・二俣英五郎絵『ねずみのよめいり』(教育画劇)が描く、循環型を代表する「ねずみの嫁入り」の昔話です。
エリック・カール作『ね、ぼくのともだちになって!』(偕成社)のねずみは、「ね、ぼくのともだちになって!」と馬、その尻尾に声をかけます。次にワニ、その尻尾に声をかけ、ライオンに、カバに、アシカに、サルに、クジャに、きつねに、カンガルーに、キリンにとつづけます。最後は、声などかけていないヘビが動き出します。このヘビは最初から見えていた、どこにも見えていた、見えていて見えなかったものなのです。その意味でこれはヘビに始まり、ヘビに終わるとの言い方も可能です。ヘビに驚いたねずみは、ねずみとともだちに――尻尾に声をかけたことによって、頭に、つまりは最初に戻ったのです。
順に声をかけていく、それでいながら決まっていた元へと戻る、「ねずみの嫁入り」と同じ形になっています。違うのは、ヘビがいること。自分の尻尾を自分で飲み込むウロボロス、円環を象徴するものとしてのヘビが、決まっている元へと戻る円環の象徴となっているのです。
※ねずみ にわとり ねこ いたち/望月新三郎文/二俣英五郎絵/ポプラ社
※ねずみのよめいり/岩崎京子文/二俣英五郎絵/教育画劇
※ね、ぼくのともだちになって!/エリック・カール作/偕成社
(英語教育講座)