■ 待つということ
藤田 博
片山玲子作・片山健絵『もりのてがみ』(福音館書店)は、「さむい さむい ふゆです。」に始まります。春の訪れを待つひろこが、りすに手紙を書きます。「もりに すみれが さいたら もみのきのしたで まっています。」とかげにも、ことりにも、うさぎにも書き、もみの木の枝に下げます。「ゆきが とけるころ、きゅうに あたたかい つよい かぜが ふきました。」「すみれが さいたかもしれない」と思ったひろこが、もみの木のところに行ってみると手紙はすべてなくなっています。「とんとん」、玄関で小さな音がします。開けてみると、くるみと石とタンポポと木の実が。届けられたそれが、りす、とかげ、うさぎ、ことりからの返事の手紙なのです。
手紙を書き、返事が来るのを待つ、この間の時間をつなぎ、時間を運ぶのが郵便やです。ここに郵便やはいません。「もりの まんなかにある おおきな もみのき」がその役を果たしているのです。「こんどは とかげに てがみを かいたのよ。よんでくれるかしら」、ひろこがもみの木に言うのは、「かわらない みどり のえだを」付けたもみの木が郵便やだからなのです。もみの木は春の到来を待つクリスマスの木、その意味において果たしている役割は同じ。春が来るのを待つ、手紙が来るのを待つ、二つの「待つ」がもみの木でつながっているのです。
内田麟太郎文・味戸ケイコ絵『かあさんから 生まれたんだよ』(PHP研究所)の始まりは、水平線を見つめる「ぼく」。「まちつづけた。ずっと。水平線を みつづけながら。」待つのは「うみの母」です。「ゆうひが しずんでいく。それでも・・・。ぼくは まちつづけた。」待ちつづけてもの先にあるのがネガティヴなのは見えています。それでも待ちつづけたのは、「海の母」と思ったから。「海の母」には、待ちつづけさせる何かがあったのです。「それから なん年してからだろう。ぼくは すこし じぶんを わらった。海の母じゃなくて、生みの母だったんだ。」時間が経ち、大人になることによってまちがいに気づく、正確には、まちがいがまちがいでなかったことに気づくのです。待ちつづけるマイナスと、思い違いのマイナス、二つのマイナスがポジティヴなものに転じたのは、待っている「ぼく」の先にあったいまの「ぼく」が子どものころの「ぼく」を見ているから。何より「ぼくは ちちになっていた」からなのです。
みやざきひろかず作・絵『チョコレートをたべたさかな』(ブックローン出版)は、少年が「ちゃいろの ちいさな カケラ」を落とすことに始まります。それを食べた魚は、「ひるもよるも・・・どこにいても・・・その あじが 忘れられな」くなり、魚でいることがつらくなってしまいます。「ながいながい あいだ まっては みたけれど もういちど ちゃいろの カケラを たべる チャンスは めぐって こなかった。」チョコレートの甘さによって、待つことのつらさ、苦さを知ってしまったのです。「5かい なつが すぎて 6かいめの ふゆが くるころ ぼくは しんだ。」待った6年が、円環を象徴する12の半分になっているのがわかります。円いアーチ形の橋の上を行く男の子、その下の川を泳ぐ魚、橋の半円と水面に映る半円が一つになって円ができていることもわかります。「きがつくと ぼくは 少年だった チョコレートの すきな 少年だった。」魚から見たとき、少年から見たとき、両者に違いが見えるのは、回り始める起点のみ。少年が落としたチョコレートを食べた魚が少年に、その少年が落としたチョコレートを食べた魚が・・・、飲み込む、飲み込まれるが作り出すエンドレスの世界にあって、いずれが先かを決めることはできないからです。
ひろこは手紙の返事を待ち、「ぼく」は「海の母」を待ち、魚はチョコレートを待ちます。待つことは行動でありながら、行動の停止を意味します。じっとして動かずに待ちつづけるは、期待と不安の狭間に立つことを意味するのです。待つ期待が待つ不安を飲み込み、待つ不安が待つ期待を飲み込む、待つことが円環と結びつくのはそのためなのです。
※「もりのてがみ」/片山玲子作・片山健絵/福音館書店
※「かあさんから 生まれたんだよ」/内田麟太郎文・味戸ケイコ絵/PHP研究所
※「チョコレートをたべたさかな」/みやざきひろかず作・絵/ブックローン出版
(英語教育講座)