■ おにだって、いろいろあるのに…――鬼の話を読む
木下 ひさし
「おにだって、いろいろあるのに。おにだって…。」そう言い残して小さな黒鬼の子ども
「おにた」は急にいなくなります。あとには温かい黒豆が残され、それを貧しい女の子が節分の豆としてまくのです。
なんとも言えない余韻の結末を迎える、節分の夜の小さな出会いと別れのお話、それが『おにたのぼうし』です。
小学校3年生の教科書教材として長年親しまれていますが、絵本で読むとまた印象が違ってきます。
帽子で角を隠さないといけない鬼の子。部屋の中でも帽子をかぶったまま。どうして鬼だけが「鬼は外」と
疎外されなければいけないの、という作者の問いかけが胸に響きます。
教材でなくとも節分の日に子どもたちに読んでやりたい本です。
同じように帽子をかぶって角を隠すのが『ぼうしをかぶったオニの子』です。こちらは絵本というよりは低学年向きの短編集となっています。
最初のお話では帽子が風で飛ばされてしまい、いっしょに遊んでいた人間の子どもたちはそれを見て逃げ出してしまうのです。
取り残された鬼の子は…。続く二番目のお話「ワニのおじいさんのたからもの」は、2年生の教科書教材となっていますが、
そこで明らかにされるのは「とんとむかしの、そのまたむかし、ももたろうがおにからたからものを
そっくりもっていってしまってからというものは、おには、たからものとはぜんぜんえんがない」という事実。
そんな鬼の子が発見した宝物は…。しみじみとさせられるお話が続きます。
教室で読み聞かせをするとしいんとなって聞いてくれます。
いうまでもなく鬼は本来恐怖の対象です。妖怪やら怨霊やら人間にとって有難くないもの、あるいはその力を指したりします。
要するにマイナスイメージ。しかし、児童文学の世界ではその鬼もまたきわめて人間的な存在として描き出され、
人間を逆照射するのです。『泣いた赤鬼』(浜田広介/作)はその先駆けかもしれません。鬼だっていろいろで、
中には人間と仲良くなりたかったりする鬼もいるわけです。
かつて4年生の教科書教材でもあった『島ひきおに』の鬼もまた、孤独に耐えかねて人間とかかわりを持とうとします。しかし、人間の側は鬼と聞いただけで拒絶してしまいます。鬼がどんなに誠意を尽くそうとしても鬼というだけでかかわりを持とうとせず、さらには策を練って追い出します。それでも人間の言葉を信じ、島を引きながら海をさまよう「島ひきおに」には涙せずにはいられません。しかし、もしかすると自分も無意識のうちに鬼的なものをその存在だけで排除してしまっているのかもしれません。やがて「島ひきおに」は南の島へたどりつきます。そこで出会ったものは…。続編ともいえる『島ひきおにとケンムン』でもまた異形の者に対しての人間のエゴイズムを考えさせられます。
※「おにたのぼうし」/あまんきみこ文/いわさきちひろ絵/ポプラ社
※「ぼうしをかぶったオニの子」/川崎洋文/飯野和好絵/あかね書房
※「島ひきおに」/山下明生文/梶山俊夫絵/偕成社
※「島ひおにとケンムン」/山下明生文/梶山俊夫絵/偕成社
(国語教育講座)