〜カムパネルラとは〜
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でジョバンニと旅をする
友人なのは言うまでもありません。絵本が開く異世界
への道案内人としての意味を込めたものです。
Vol.25 2011年11月号
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■ 「ひみつの部屋」を見つけるときめきを教えてくれるこの一冊

ジル・バークレム作/岸田衿子訳『のばらの村のものがたり ひみつのかいだん』(講談社)

鈴木 桃子

私が子どもだった頃、家の前に大きな桜の木がありました。春にはとてもきれいな花を咲かせるのですが、夏には嫌いな虫が顔を出し、近づくことができませんでした。
 のばら村のものがたり ひみつのかいだん』は森の中で暮らすねずみたちの話です。ページを開くたびに、こぼれんばかりの装飾や色とりどりの小物が目に飛び込んできます。

「ふたりとも、今夜の用意はできてるかい?」もりねずみだんしゃくがききました。
プリムローズとウィルフレッドは、めくばせしました。今夜、暗くなってから、ねずみたちがみんな、まっかにもえる火のまわりにあつまって、むかしながらの冬至まつりをいわうのです。

二人は詩を暗唱することにしました。練習する場所を探し、衣装を探し、住んでいる木の家の、部屋から部屋を回ります。二人は物置部屋の隅のカーテンの裏にある扉を見つけます。偶然見つけた鍵で扉を開けると、長い螺旋階段が上へと続いていました。「もう、何年も何年も、この階段をのぼったひとがいないんだわ」、そう言いながら二人が上ったその先に、長いこと使われていない豪華な部屋があったのです。
部屋につながる「子ども部屋」で見つけたきらびやかな衣装、その衣装を身にまとっての詩の暗唱は大成功。みんな拍手喝采です。お父さんもお母さんも大喜び。階段を上るとき、二人にはなぜかいいことが起こりそうな予感がしていたのです。それも、この階段が上へとつながっていたからのこと、下へと降りるものであったら、うまくいかなかったのではないでしょうか。明日はあの「ひみつの部屋」で何をして遊ぼうか、そう考えるうちに、疲れた二人はすやすやと眠ってしまいました。

私が初めてこの本を手にした時、話の内容はよくわかっていなかったのだと思います。しかし、ねずみの使っているコップはどれだけ小さいのだろう、ねずみもねずみの世界では服を着るのねと、胸をときめかせたことを覚えています。その後、桜の木に近づき、手を触れてみたのは、この木の中にもしかしたらとの思いがあったからかもしれません。

(音楽教育専攻4年)


■ 新刊紹介

あまんきみこ・文/こみねゆら・絵『つきよはうれしい』(文研出版)

 
 学校からの帰り道、ようくんとフジの花を見上げていて、バイクにはねられた「わたし」、手術が終わり、意識が戻ると、病室での「パパと ママの あおい かおが、ふかい あなの そこから みあげたよう とおくに」見えます。ようくんは毎日、見舞いに来てくれます。マダイ、タラ、ボラ、ドンコ、ミノカサゴ・・・、「さかなの えを かいて、まいにち、一まいずつ もって」です。ようくんのお父さんは、水族館の館長なのです。病院にいる2週間で、「フジの はなは、みんな、ちってしまってい」ました。ようくんの魚の一匹一匹が、花びらの一枚一枚に置き換わる、それによって足の傷はよくなり、退院できたかに思えるのです。
 それでも心の傷は癒えていません。「いえの なかでは、あるけても、がっこうに いくあの みちは、あるけない」、そう言う「わたし」を、ようくんは、毎日、見舞ってくれます。カゴカキダイ、マフグ、アカエイ、イシナギ、ギバチ・・・、「ちがう さかなの えを、一まいずつ もって。」「すいぞくかんって、いっぱい、さかなが いるのね。まだまだ、いる?・・・じゃあ、まだまだ、がっこう、やすめるわ」学校を休む、そう思う「わたし」の中に非日常的時間が広がります。「そうだ、きょうから、つきよなんだ」、ようくんのその言葉には、そこから夢の世界へと入った「わたし」が示されているのです。
 「わたし、よなかに、めが さめたの。」「みずいろの カーテン」の向こうから歌声が聞こえてきます。「つきよは うれしい うみの そこ ほーい ほい」ようくんが窓から外へと「わたし」を連れ出します。「永遠の子ども」ピーターパンとしてのようくんをつくり出し、迎えにきてもらう、それを可能にしているのはイメージのつながりです。「ふかい あなの そこ」、「すいそう」、「さかなの え」、「みずいろの カーテン」、それがフジの花の「いろ」に通じているのは言うまでもありません。「みんな、せまい すいそうから でてきて、ほんとうに うれしそう。」ようくんが、そして「わたし」が魚と一緒に泳ぎます。「つぎの ばんも。その つぎの ばんも。まいばん、およいで、わたし、ぐっすり ねむったの。」眠ることで「わたし」は、「フジのはな」から解き放たれたのです。「むねが きゅんとなるほど、がっこうに いきたくなった」のはそのためです。「あの フジの はなの みちも、へいきで とおれた」のです。教室に行くと、ようくんが「つきよの ときのように、てを ふって」笑います。「すこし、あかくなったみたい。」

(藤田 博)


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