■ くつを履いて
藤田 博
くつを履いて外に出る、外へと出るためにくつを履く、外なるものと触れるものとしてのくつ、くつが内と外をつなぐものであることの確認ができます。
よちよち歩きの子が散歩に出ます。そうは言いながら、描かれるのはくつだけ、その子が描かれることはありません。林明子作『くつくつあるけ』(福音館書店)は、「くつくつあるけ」そのもの、歩いているのはくつなのです。それでいて、見えないその子を思い描くことができるのはなぜかとの問い掛けに、くつだからとの答えが可能とすれば、足先に履くくつが体全体を表しているために違いありません。
「ぴょーん あっ あぶない ごろん いたたたた ころんじゃった」、「ごろん」としたのはくつ、「ころんじゃった」もくつ、それでいて転んだのはまちがいなくその子なのです。「もう ねむい ねむい くつくつ おやすみ ぐー ぐー ぐー」、眠いのはくつでしょうか、その子でしょうか。くつが眠いからその子も、その子が眠いからくつも、見えているのは分身としてのくつなのです。
「この あしあと だあれ」は、しみずみちを作『あしあとだあれ』(ほるぷ出版)で繰り返される問い掛けです。「ちゅんちゅんすずめ」に「にゃんにゃんねこ」、「ぴょんぴょんうさぎ」、それぞれ足の形が違います。違った足の形から違った足跡ができます。すずめだから、ねこだから、うさぎだからこの足跡とわかる、逆にその足跡からすずめにねこ、うさぎを思い描くことができるのです。
ゲルダ・ミューラー作『みえないさんぽ』(評論社)も描かれるのは足跡だけ。ここでは、足跡をたどり、どこをどう歩いたか、どこで誰に、何に会ったか、何をしたか、すべてを探偵の目になって解き明かすことが求められます。右へ向かったか、左へ向かったか、走り出したか、立ち止まったか、具体的な動き一つ一つに抽象的意味合いを持たせることで、足跡(あしあと)は足跡(そくせき)へと変わります。その人の歩み、歩いた道のり、足跡(そくせき)が人生を意味するのはそのためと言えます。
アリスン・アトリー作・こみねゆら絵・松野正子訳『くつなおしの店』(福音館書店)は、くつ屋ニコラス・ドビーの物語です。「小さい店の中でもいちばん小さくて、あまり小さいので、両どなりのブリキ屋と生地屋におしつぶされてしまいそう」、ニコラスの店はそれほどに小さいのです。それでも、腕のいいニコラスには、「ジョン・ジェニバーのブーツはすりへってきとるな。早くこないと、なおしがきかなくなるぞ」と、仕事をしながらわかる、歩いているところを見てではなく、聞いてわかるのです。ニコラスは足の悪いポリー・アンのために小さなくつをつくります。孫のジャックの頼みを聞いてのもの。わずかなお金で買うことのできた赤いモロッコ革の端切れからです。ポリーのくつをつくった残りの革から更に小さなくつをつくります。「こ、これ、妖精のくつだ」、ジャックがそう叫ぶほどの小さなくつです。店の窓にぶら下げていたそのくつはなくなってしまいます。履いていったのは妖精でした
足がよくなり不要になったポリーのくつから、小さい小さいくつを二十つくります。そのくつは全部なくなって、茶いろいぼろぐつと金貨の山が残されていました。ニコラスは妖精が捨てていった羽とネズミの皮から「ちいちゃいさいふ」をつくります。「一シリングつかうと、いつもまた、べつの一シリングがはいってい」る不思議な財布です。貧乏なくつ屋が見返りを期待せずにつくったポリーのくつ、そのくつからつくった妖精のくつ、その見返りとして財布を手にしたのです。ニコラスが妖精とつながりを持つのは、内でもあり外でもあるくつをつくるくつ屋だから。くつ屋はくつを通して外なる世界と結びついているのです。妖精が足跡を残すことはありません。ニコラスには、見えないその足跡が見えていたのかもしれないのです。
※「くつくつあるけ」/林明子作/福音館書店
※「みえないさんぽ」/ゲルダ・ミューラー作/評論社
※「くつなおしの店」アリスン・アトリー作/こみねゆら絵/松野正子訳/福音館書店
(英語教育講座)