〜カムパネルラとは〜
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でジョバンニと旅をする
友人なのは言うまでもありません。絵本が開く異世界
への道案内人としての意味を込めたものです。
Vol.18 2010年9月号
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■ 帽子をかぶる

藤田  博 

  桃太郎が「おびしめて たちをはき はちまきしめて」、金太郎が「まさかりもって くまにのり はちまきしめて」、それでは不足とばかりに、「ぼうしをかぶり」となるのは何故でしょうか。 かぶった桃太郎に、金太郎に、「あなた いつまで かぶっているの」と声が飛びます。「あなた」というからには奥さん、しかし、桃太郎にも金太郎にも奥さんはいないはず。大向こうからかかるようにしてかかった声なのかもしれません。「おにたいじまで」かぶっている、かぶっていたいその意味は、かぶっていなければ鬼退治ができなかった、かぶっていたからできたということなのではないでしょうか。帽子をかぶるとは、特別な力を与えてくれるものに他ならないからです。
 桃太郎に、金太郎に、そして、弁慶に、共通しているのははちまき、そのはちまきの上の帽子です。みほちゃんが犬のしろくんにするはちまき、かぶせる帽子は、真剣そのものの桃太郎、金太郎、弁慶のパロディーといったところでしょうか。みほちゃんにとっても、しろくんにとっても、「いつまでも いつまでも いつまで ずうっと」かぶっていたい帽子。帽子とはそういうもの、瀬川康男作・絵『ぼうし』(福音館書店)の描き出す「ぼうし」の世界です。
 さのようこ作・絵『わたしのぼうし』(ポプラ社)の「わたし」の帽子は、「すこし ふるくて、すこし よごれていま」す。それだけなじんでいる、だからこその「わたしの」帽子なのです。デパートで迷子になったとき、お母さんは「わたしの ぼうしを みつけたので、ぼうしを かぶっている わたしもみつかりました。」もう一人の自分、分身としての帽子です。汽車の窓から顔を出し、帽子を風に飛ばされてしまったとき、「とんでいったのが おまえでなくて よかったよ。」とお父さんが言います。もう一人の自分、身代わりとしての帽子です。
買ってもらった新しい帽子をお兄さんはすぐかぶります。「わたし」はかぶりません。「それは、わたしの ぼうしのようでは なかったんですもの。」買い物に行くとき、お母さんが何度も「わたし」に帽子をかぶせます。「わたし」はその度にずらします。「だって、わたしの ぼうしのようでは なかったんですもの。」その帽子のつばをかじって引っぱります。歯の痕がつき、こすると黒くなります。そこに蝶が止まります。「なんだか、わたしの ほんとの ぼうしのようでした。」そうした気持ちになったのは、蝶が帽子と「わたし」を一つのものとして認めた、正確には、蝶が認めたと受け止めた、だからこそなのです。
竹下文子作・いせひでこ絵『むぎわらぼうし』(講談社)に描かれるのは、麦わら帽子と夏の思い出です。「おかしを やいたから あそびに いらっしゃい。」隣町のおばさんからの電話です。麦わら帽子をかぶっていこうとしたるるこに、「はやく、そんな ぼうし ぬいで。」「それ かぶっていくなら、つれて いかないわ。」「もう あきなのに、なつの ぼうし なんか おかしいわ。」矢継ぎ早にそう言ってせかせる姉に、るるこは、「まだ なつよ」と答えます。「もう すずしいでしょ。」姉のその声に反発するかのように、るるこは「ぼうしを うんと ふかく ひっぱりおろしました。むぎわらの においがします。ひなたの においです。」帽子の中に奇妙な安心感が生まれます。帽子という外なるものが、なじむことによって内なるものに、そこから生まれる安心感です。
るるこがそこで見たもの、帽子が見せてくれたものは夏の思い出です。「あ、そうだ。みんなで うみに あそびに きて いたんだっけ。」お姉さんがるるこの帽子を高く放り上げます。「つかまえて、だれか つかまえて!」沖の方へ出て行った帽子が、「ぽーん、ぽーん、てから てへ なげられて、かえってきます。」「わたしの ぼうし!」、そう言ってるるこは帽子をしっかりつかみます。海が消えます。るるこが帽子をぬぐと、つばの縫い目が破れています。「そこから なつは でて いって しまいました。」出ていってしまったのではない、るるこの中に思い出としてしまい込まれたのです。 
※「ぼうし」瀬川康男作・絵/福音館書店
※「わたしのぼうし」さのようこ作・絵/ポプラ社
※「むぎわらぼうし」竹下文子作・いせひでこ絵/講談社

(英語教育講座)


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