■ 自転車に乗る
藤田 博
5歳の誕生日に自転車を買ってもらったくまたくん、早速、家の前の道路で練習を始めます。「すると、きゅうに せが たかくなったような きが しました。からだが、じめんから はなれた ところに ういているみたいです。」その日の夜、寝る前にもう一度、玄関先の自転車を見にいきます。分身にも思えるようになった自転車をです。次の日は、お母さんに見ていてもらっての練習です。ペダルを踏むと、ふらふらしながらも自転車は走り出します。「ママ、むこうの ほうに たってて」、お母さんとの距離が開くに従い、ふらふらは消えていきます。不安定にして安定したものとしての自転車、そのペダルをこぎつづけることから、自転車に乗っている自分を見つめるもう一人の自分が生まれます。自転車に乗れたその日を、忘れられない思い出の日にしているのは、その日が自分を外から見る、もう一人の自分に出会えた日だからなのです。わたなべしげお作・おおともやすお絵『ぼくじてんしゃにのれるんだ』(あかね書房)は、自転車に乗れたくまたくんの思い出の日を伝えています。
舟崎靖子作・渡辺洋二絵『やい トカゲ』(あかね書房)は、「東町こうえんに やきゅう にいくよ。」と友だちが誘いにきても、行くことのできない「ぼく」に始まります。「ぼく」の自転車が、「手じなみたいに、まひるの どうろから きえてしまった。」のです。「ぼくの いえの となりの はらっぱを おひさまが あかるく てらしている。・・・まるで 学げい会の ぶたいみたいだ。しょうめいに てらしだされた だれも いない ぶたいみたいだ。」自転車に乗って遊べない自分を、主役のいない舞台として思い描くのです。「やい、じてんしゃを なくして いいきみだぞ。」トカゲの目がそう言っているように「ぼく」には思えます。トカゲ目がけてろう石を投げつけます。石の当たったトカゲは、尻尾を残していなくなります。
「サクラの 花が いちばん きれいに さいた日、・・・あの日も、ぼくは じてんしゃに のっていた。ザリガニを つりにいった日、・・・あの日も ぼくは じてんしゃにのっていた。」いつも「ぼく」と一緒だった「ぼく」の自転車が見つかります。いつかのトカゲが、石の上から、「『見ろよ!』と いったように よこ目で ぼくを 見てい」ます。「『見ろよ!』ぼくも じてんしゃの ベルを ならし」ます。「やい トカゲ、せっかく はえた しっぽ なくすなよ。」自転車にまた乗ることのできる高揚した気分、と同時に、腹立ちまぎれに石を投げつけた自分に対する反省が、乱暴な口調のその影からのぞいています。自転車に乗れなかったあの時の自分、自転車に乗ることのできるいまの自分、トカゲとの「対話」が「二人の」自分との対話なのは言うまでもないのです。
自転車に乗った父と娘が、干潟を走っていきます。父はボートを漕ぎ、海へと乗り出します。その日以来、娘は父を待ちつづけます。「夏が去り 冬が去る 少女の車輪と 季節は めぐる。」マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット作・絵・うちだややこ訳『岸辺のふたり』(くもん出版)には、過ぎていく直線的時間と巡り来る円環的時間の重なり合いが、少女のこぐ自転車によって示されています。娘は、「やがて かけがえのない人の ぬくもりに ふれる」のです。真っすぐに伸びた土手を父と娘が自転車で行く、恋人のこぐ自転車の後ろに乗った娘が行く、「彼とふたりで こぎだした 自転車に こどもたちが のっている」は、それを象徴するものに他なりません。「父は 帰ってこなかった」、「父だけは 帰ってこなかった。」が繰り返されます。強調されているのは父であること、そこから母であればどうなのかとの問い掛けをしたくなります。見えているのは、父と母の象徴するもの、直線的時間と円環的時間の違いに係わる問い掛けが教えてくれる答えなのです。
左側のページすべてが、額に入った写真のようになっています。思い出が強調されたものとなっているのです。父との思い出のなか自転車をこぐ、そして、いま年をとり、昔、夫と子どもとこいでいた自転車を振り返る。重なり合う時間のその中に、いつも一緒だった自転車が見えているのです。
※「ぼくじてんしゃにのれるんだ」わたなべしげお作・おおともやすお絵/あかね書房
※「やい トカゲ」舟崎靖子作・渡辺洋二絵/あかね書房
※「岸辺のふたり」マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット作・絵・うちだややこ訳/くもん出版
(英語教育講座)