〜カムパネルラとは〜
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でジョバンニと旅をする
友人なのは言うまでもありません。絵本が開く異世界
への道案内人としての意味を込めたものです。
Vol.9 2009年3月号
バックナンバーはこちら
[ 123 | 4 ]

■ 「思い出」について考えさせてくれるこの一冊

竹下文子・作/いせひでこ・絵『むぎわらぼうし』(講談社)

横田 裕里

 この時間がずっと続けばいいのに、誰もが一度はそう思ったことがあるはずです。しかし、どれほど願っても、時間はせわしなく過ぎ去って行きます。
 るるこは、大切な時間が移ろってゆく現実を受け入れられずにいます。もう秋になろうとしているのに、麦わら帽子を脱ぐことができないのです。帽子には、楽しかった夏の時間がたくさん詰まっているからです。お姉さんに「はやく、そんな ぼうし ぬいで。・・・もう あきなのに、なつの ぼうしなんか おかしいわ。」と言われても、るるこは「まだ なつよ。」と頑なに拒み続けます。
 幼いるるこにとっては、大好きだった時間が遠くへ行ってしまうのが怖くてたまらないのかもしれません。確かに、宝物のような時間が過ぎ去ってしまうのはとても悲しいことです。だからこそるるこは、「ぼうしを うんと ふかく ひっぱりおろし・・・すっぽり ぼうしの なか」に入ってしまうのです。けれども、私たちは成長するにつれ、そのような時間を「思い出」として心にしまっておくことを覚えます。そして、時々それを取り出して懐かしむことで、悲しみに耐えるのです。るるこのお姉さんは、そのことを知っています。まだそれがわからないるるこは、麦わら帽子を手放したくないと思ってしまうのではないでしょうか。
最後にるるこは麦わら帽子を脱ぎます。「つばの ぬいめが おおきく やぶれて・・・そこから なつは でて いって」しまったのです。「なつは でて いって」も、大切な時間を「思い出」にすることを知ったるるこは、少しだけ大人になったのかもしれません。
 

(英語教育専攻4年)


■ 新刊紹介

きむらゆういち作・絵『たんじょうびはきのうえで』(講談社)

 待ちに待ったモモリンの誕生日、この日のためにクッキーをつくり、プレゼントを用意したさるのモンタは、「とくべつおしゃれなズボン」をはき、「あたらしいまっかなベスト」を着てパーティへと出かけます。モンタの口からは、「きょうは さいこうだね」とのことばが飛び出します。道々、プレゼントの包みを開けたとき、モモリンが口にすることばを思い描いてみます。「まあ、これ あたしが ほしかった ものよ。」うっとりするモンタは木の根につまずき、プレゼントを水たまりに落としてしまいます。「あーあ きょうは ついてないな。」そう思ったとき、足を踏み外して崖の下に落ちそうに。はずみでクッキーの袋が転がり落ちてしまいます。「もう〜、きょうは なんて ついてないんだ。」岩肌を伝って崖を降りたため、ズボンもベストもぼろぼろになってしまいます。「あ〜ん、きょうは さいこうに ついてない。」「ついてない」は、そこで終わりにはなりませんでした。恐ろしいオオカミ谷に下りてしまっていたのです。
 何匹ものオオカミに追いかけられ、モンタは必死の思いで木に登ります。同じくオオカミに追われたモモリンがそこにいたのです。木の上に登る、最悪の状況をつくり出したオオカミは、モモリンと二人だけのパーティ、最高のパーティのお膳立てをしてくれたことになります。そうであっても、下には口を開けたオオカミ、絶対絶命であることに変わりありません。「これが あたしの さいごの おたんじょうびに なっちゃったりしてえ〜。」と叫ぶモモリン。「食べられる」ことを意識しながら「食べる」、究極のパーティの始まりです。
 「ひどい あらしで さいあくの よるだと 思っていたんですけど、いい ともだちに であって、こいつは さいこうの よるかも しんねえす。」嵐の夜に出会い、明日また会うことを約束してヤギのメイと別れる、オオカミのガブのことばです。いくつもの偶然が作用することで「最悪」が「最高」に、同じ作者の『あらしのよるに』と同じ形になっているのがわかります。違っているのは、オオカミが横ではなく下にいること、モンタの横にいるのは同じサルのモモリン、食べる者と食べられる者が直接向かい合っていないことです。下にいるオオカミの一匹が、「きょう オレも たんじょうびだ」と誕生日を思い出したことで、パーティの準備のためいなくなってしまう、それがモンタに忘れられない誕生日パーティをプレゼントしてくれているのです。

(藤田 博)


[ 123 | 4 ]
図書館のホームページに戻る バックナンバー
Copyright(C) Miyagi University of Education Library 2008