■ 木を植えるのはあなた自身
松ア 丈
「人びとのことを広く深く思いやる、すぐれた人格者の行いは、長い年月をかけて見定めて、はじめてそれと知られるもの。名誉も報酬ももとめない、まことにおくゆかしいその行いは、いつか必ず、見るもたしかなあかしを、地上にしるし、のちの世の人びとにあまねく恵みをほどこすもの。」
『木を植えた男』は、この印象的な文章から始まります。1913年、フランスのプロヴァンス地方にある誰もいない殺伐とした荒地で、エルゼアール・ブッフィエという名の老人が40年にわたって木の種を植え続け、やがて荒地全体が緑と化してゆくという物語絵本です。
一農夫であるブッフィエは、ふもとで農業を営んでいたのですが、あるとき妻と息子を突然失い、絶望と孤独に陥ってしまったのです。しかし、ささやかな喜びを少しでも得ようと、広大な荒地に一人で生命の種である木を植えることを決めました。1万本のカシワの木、ブナの木、カバの木…。それは大変に無謀で途方もない作業でしたが、しっかり根づき、立派に育ってきました。1万本のカエデも植えたのですが、その思いもむなしく、苗が全滅してしまいました。それでも諦めることなく、ふたたびブナの木などを植え、自然林と見間違うほどの緑を増やしていきました。やがてそこに1万を超える人びとが集まり、幸せと生命感に満ち溢れた生活を送ります。荒れはてた地は、たった一人の人間の手によって、豊穣な土地に変わっていったのです。最後の頁では、苦悩しながらも偉大なことを成し遂げた静かな満足感に満ち、やすらかに生涯を閉じていくブッフィエの穏やかな表情の移り変わりが描かれています。そこには次の文章も添えられています。
「魂の偉大さのかげにひそむ、不屈の精神。心の寛大さのかげにひそむ、たゆまない熱情。それらがあって、はじめて、すばらしい結果がもたらされる。この、神の行いにもひとしい創造をなしとげた名もない老いた農夫に、わたしはかぎりない敬意を抱かずにはいられない。」
この物語絵本は、原作者のジャン・ジオノ(1895−1970)が、1953年、アメリカの雑誌編集者から、「あなたがこれまでに出会ったことのある、最も並外れた、忘れ難い人物はだれですか−」と問いかけられて書いたものです。それを受け取った編集者は、偉大な物語に感動し、ブッフィエという人物について調査を行なったのですが、実は実在していないことがわかりました。編集者はその原稿の掲載を拒否しました。そこで原作者ジオノは、拒絶された原稿の著作権を放棄し、自由に掲載されるようにしました。やがて別の雑誌に掲載され、大きな反響を呼んで世界各地に広まりました。ジオノは第2次世界大戦中に戦争逃亡者をかくまい、7カ月投獄された経験を持っています。ジオノのこうした行動に、すでにブッフィエが彼の心の中に息づいていたのだろうと想像できます。
ブッフィエにとって「木」とは、夢と現実をつなぐ想像力と生きることへの根源的な問いであり、かつ生きることへの不屈の精神とたゆまない熱情の象徴なのです。そのような「木」を植え続けてきたブッフィエの精神が、朽ちかけた現実の世界に生きる私たちの心に忘れかけていたものを思い出させるように、静かに優しく語りかけてくるのです。
※「木を植えた男」ジャン・ジオノ文/フレデリック・バック絵/寺岡襄訳/あすなろ書房
(特別支援教育講座)