■ 絵本のなかに降る雪は・・・
藤田 博
雪は積もるもの、積み重なるもの、それが時の流れを目に見える形で教えてくれます。『仮名手本忠臣蔵』の十一段「討入」の場面に雪が欠かせないのも、いかに長い艱難辛苦の時間を過ごしたかを雪によって示すことができるからに違いありません。同時にその雪は、主君のために自分を捨てる、犠牲の精神の象徴ともなっているのです。
G.エリオット『サイラス・マーナー』(岩波文庫)における雪は、人間嫌いを通してきたサイラスが、よちよち歩きの赤ちゃんエピーとの出会いをつくり出すものとなっています。出会いのその日は大晦日です。旧い年に別れを告げ、新しい年を迎える大晦日を境にサイラスは変わっていく。旧いサイラスを捨て、新しいサイラスを迎え入れる、それが雪の大晦日なのです。
大晦日の物語に、瀬田貞二・再話/赤羽末吉・絵『かさじぞう』(福音館書店)があります。自分の作った五つのかさを持ってじいさんが町に売りにいきます。お正月のもちを買うためです。売れずに残ってしまったそのかさを六地蔵にかぶせます。しかし、一つ足りません。じいさんは自分のかさをとってかぶせてやるのです。その夜、もちやら魚やらが山ほど届けられるのは、自分より相手を考える、その心に対してなのです。
「あと隠しの雪」の伝説が思い出されます。身をやつした弘法大師が貧しいおばあさんの家に一夜の宿を乞います。もてなすものが何もないおばあさんは、となりの家から稲一把を盗み、団子をつくって食べさせます。おばあさんの足跡から盗んだことがわかってしまうと考えた弘法大師は、雪を降らせ、足跡を隠すのです。雪は盗みを隠しているのではありません。盗みをしてももてなしをと考えたおばあさんの心を浮かび上がらせているのです。
中川正文・文/梶山俊夫・絵『ごろはちだいみょうじん』(福音館書店)の主役はたぬきのごろはち、いつもわるさばかり、それでいてにくめないごろはちです。ある日のこと、村に花火があがります。汽車の開通を祝う花火です。汽車がやってきます。「なんや、けむり はいとるで。へんてこりんな もんやのう。」汽車を見たことのない村人はぞろぞろ線路に入り、歩き出します。「ひょっとしたら、こら ごろはちに だまされとるのと ちがうやろか」、村人はそう考えたのです。走ってくる汽車の前に立ちはだかり、汽車を止めることでごろはちは村人の命を救います。死んだごろはちの上に雪が降ってきます。「つめとうなった ごろはちの うえに、ぼたんゆきが ぽたぽたと ふりはじめて きよった。」雪は、自ら命を投げ出したいたずらもののごろはちの清い心を表しているのです。
「ゆきが たくさん ふって、のも やまも すっかり まっしろに なりました。」こうさぎがかぶを二つ、雪の上に見つけます。方 軼羣・作/村山知義・絵『しんせつなともだち』(福音館書店)の始まりです。一つ食べたこうさぎは残りの一つをろばのところに持っていきます。「ろばさんは、きっと たべものが ないでしょう。」と考えたのです。さつまいもを見つけたろばが家に戻ってみると、かぶが置いてあります。ろばはこやぎのところにかぶを持っていきます。はくさいを見つけたこやぎが家に戻ってみると、かぶが置いてあります。こやぎはこじかのところにかぶを持っていきます。あおなを見つけたこじかが家に戻ってみると、かぶが置いてあります。こじかはこうさぎのところにかぶを持っていきます。「やあ、かぶが もどってきた。」
明日、食べ物が見つかる保障はどこにもありません。かぶを自分のものにしたい、そう考えて当然です。しかし、こうさぎもろばもこやぎもこじかもそうはしないのです。雪の上にかぶが、さつまいもが、はくさいが、あおなが落ちているのはいかにも不自然です。高いところから神が見ていて、試しているとは考えられないでしょうか。そうだとすれば、こうさぎもろばもこやぎもこじかもその試しに見事に応えたことになるのです。戻ってきたのはかぶだけでない、こうさぎ、ろば、こやぎ、こじかの心なのです。
※「かさじぞう」瀬田貞二・再話/赤羽末吉・絵/福音館書店
※「ごろはちだいみょうじん」中川正文・文/梶山俊夫・絵/福音館書店
※「しんせつなともだち」軼羣・作/村山知義・絵/福音館書店
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