〜カムパネルラとは〜
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でジョバンニと旅をする
友人なのは言うまでもありません。絵本が開く異世界
への道案内人としての意味を込めたものです。
Vol.7 2008年11月号
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■ 与えることの意味を考えさせてくれるこの一冊

シェル・シルヴァスタイン作・絵、ほんだきんいちろう訳『おおきな木』(篠崎書林)

田島 由佳

 原題をThe Giving Treeというこの本と出会ったのは、中学3年生の時でした。これは小さな男の子と一本のりんごの木のお話です。小さな男の子と木はとても仲良しでした。毎日を一緒に過ごすことができ、木はとても幸せでした。しかし、男の子が年をとるにつれ、木のところへ遊びに来ることが少なくなっていきます。寂しい思いをしている木のもとへ、久しぶりに男の子がやって来るのですが、木と遊ぶことより、お金を欲しがったり、遠くへ行きたがったりで、木の気持ちをまったく考えないようになってしまっています。そんな男の子に木はりんごの実を与えてお金にさせ、幹を切らせて船を与えます。それでも木は幸せなのです。
 自分のすべてを与え、切り株だけになってしまった木のもとへ、年老いた男の子がやって来ます。疲れ果てた男の子に、木は、「もうなにもあげられるものがなくなってしまったわ。でも、わたしの切り株に腰掛けて休んでちょうだい。」と言います。絵本は男の子が切り株に腰掛ける絵で終わっているのです。この終わりが意味するものは何なのでしょうか。木は本当に幸せだったのでしょうか。
 中学生の頃、「この木は誰を表していると思うか」と問いかけられたことがあります。この木は、何の見返りも求めず、無償の愛を与えつづける母の姿を表したものに思えます。今、教師を目指している自分は、どれだけこのおおきな木に近づけているのでしょうか。与える立場になろうとしている今、もう一度この本と向き合って、与えることの意味について考えてみたいと思っています。
 

(国際文化専攻3年)


■ 新刊紹介

バージニア・リー・バートン文・絵、石井桃子訳『ちいさいおうち』(岩波書店)

 これは「むかしむかし、ずっと いなかの しずかなところ」にあった「ちいさいおうち」の物語です。ちいさいおうちは「おかのうえから まわりの けしきを ながめて しあわせにくらしてきました。」「まわりの けしき」の一つがりんごの木でした。「はるが くると、・・・りんごのはなが いっせいに さきだします。」「なつになると、・・・りんごのみは じゅくして、あかく なりはじめます。」「あきがくると、・・・りんごつみが はじまります。ちいさいおうちは、それを みな おかのうえから じっとみていました。」「ふゆがくると、・・・いえのあたりは ゆきで まっしろに なり、・・・やがて、りんごの木は としをとり、あたらしいのに うえかえられました。」
 「ところが、ある日 いなかの まがりくねったみちを、うまの ひっぱっていない くるまが はしってくるのを みて、ちいさいおうちは おどろきました。」馬車に代わる車の登場です。まっすぐな道が次々とつくられていきます。「ちいさいおうち」の前を電車が走り、「ちいさいおうち」の下を地下鉄が走り、暮らしのスピードが急速に増していきます。「もう いつ はるが きて、なつが きたのか、いつが あきで、いつが ふゆなのか、わかりません。いちねんじゅう いつも おなじようでした。」「ちいさいおうちは まちは いやだと おもいました。そして よるには、いなかの ことを ゆめにみました。」
 やがて立ち並ぶビルの真っ只中に埋もれてしまったその家を「このいえを たてたひとの まごの まごの そのまた まごに あたるひと」が見つけます。「ちいさいおうち」は、りんごの木のある丘へ引越しすることになるのです。「ちいさいおうちは・・・また お日さまを みることが でき、お月さまや ほしも みられます。そして また、はるや なつや あきや ふゆが、じゅんに めぐってくるのを、ながめることも できるのです。」
これが出たのは昭和56年、「新刊」には程遠いものです。それでもここには「新しさ」があります。時代が進むなかでも変わらない、変えてはいけないものがあることの教えです。今年、101才で亡くなった、一めぐりする時間を生きた石井桃子の熱い思いが伝わってくるのです。

(藤田 博)


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