〜カムパネルラとは〜
宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』でジョバンニと旅をする
友人なのは言うまでもありません。絵本が開く異世界
への道案内人としての意味を込めたものです。
Vol.4 2008年5月号
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■ なつかしさいっぱいのこの一冊

レオ・レオニ作・谷川俊太郎訳『アレクサンダとぜんまいねずみ』(好学社)

今  真弓

 小学校2年生の国語の教科書に載っていたこの絵本を附属図書館で見つけ、なつかしさのあまり手に取りました。
 壁の下の穴に棲むねずみのアレクサンダは、ぜんまい仕掛けで動くねずみのウイリーと出会い、友達になります。子どもたちからちやほやされるウイリーに、アレクサンダはうらやましさを覚えます。魔法を使うとかげの話をウイリーから聞いたアレクサンダ、自分もぜんまいねずみにして欲しいととかげに頼むのです。ぜんまいねずみになるのに必要なのは、満月の夜に「むらさきのこいし」を持ってくることでした。アレクサンダは懸命に探し回ります。ところが、ある日、突然、ウイリーがいなくなってしまいました。「古いおもちゃ」として、積み木や壊れた人形と一緒に箱の中に捨てられていたのです。その時、アレクサンダの目に入ったものがありました。「むらさきのこいし」です。
 ぜんまいねずみになりたいと必死だったアレクサンダが、「とかげよ とかげ、ウイリーをぼくみたいな ねずみに かえてくれる?」と、まったく逆の願いをとかげに言ったのはどうしてだったのでしょうか。小学生のときに考えたその問いかけへの答えに、今ようやく気づくことができました。本当の幸せとは何かということにです。

(英語コミュニケーションコース2年)


■ 新刊紹介

岩城範枝・文/片山 健・絵『木の実のけんか』(福音館書店)

 どの花よりも先に満開になった大きな桜の木を見るために、向こうの山からタチバナ一族がやって来ます。ダイダイ、クネンボ(九年母)、ユズ、ブシュカン(仏手柑)、ブンタン、ミカン、キンカンの面々です。「いつもとおなじお酒でも、桜の下だと、かくべつに うまい」と興が乗ってきたところに、長年、この山に住むクリの実が、「ほかの山からきたくせに」と文句をつけます。タチバナ一族からひどい目にあわされたクリは、仕返しのため、カキ、ナシ、ウメ、ザクロ、ナツメ、モモの木の実一族を引き連れて押しかけ、双方入り乱れてのけんかが始まります。すると、花あらしが舞い、タチバナ一族も木の実一族も吹き飛ばされ、見えなくなってしまいます。「木の実たちがいなくなると、風はやんだ。そして、なにごともなかったように また、しずかに 桜が咲いていた」のです。
 狂言「菓争(このみあらそい)」を基にしたこの絵本を、あるいは狂言そのものを、満開の桜の下での人間のつまらない争いを擬人化して描いたものと理解するか、満開の桜になくてはならないものと理解するか、解釈は分かれます。悪役とされ、狂言にあっては武悪の面をつけるクリが、「その歌ではないわ。よくききなされ。」と言って、「よしの山 たがうえそめし桜だに 数さきそむる 花のはじめぞ」と古歌を披露するなど、手順を踏んだ「儀式」となっていることからも、酔っ払い同士のけんかでないのはわかります。ここにあるのは、小正月の行事などとして広く見られる叩き合い、模擬合戦と考えられるのです。叩き合うそこでの音が大きければ大きいほど、強ければ強いほど良しとされるのは、それが豊穣をもたらすものと信じられているからです。そう考えることで、クリに一斉に打ちかかり、扇で打ち据えるといったことも合点がいくというものです。敵も味方も消え失せたのは、桜の精が懲罰としてそうしたのではない、叩くということを伴う様式化された笑いのその後に、全山が桜に染まるということなのです。
  

(藤田 博)


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