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展示監修・解説執筆: 笠間賢二(宮城教育大学学校教育講座 教授)
教科書の歴史を扱う場合、通常は、翻訳教科書、模範教科書(文部省)、検定教科書、国定教科書(第1~第5期)、新しい検定教科書(戦後)を、順次取りあげて記述することが多い。しかしそうした個別史では、教科書そのものへの理解が深まっても、その教科書がどんな時代に使用されていたのかにまで理解が深まることは、なかなか難しい。そこでこの解説では、敢えて教科書制度や教科書の書誌的事項から離れて、学校教育の歴史を、しかもできるだけ大きく捉えて、解説をくわえることにした。それは、ご来場の方々に、個人的な学校体験を歴史のなかに位置づけ直してもらい、それらがどのような歴史的、社会的状況に関わるものであったのかを振り返っていただくようにしたいと考えたからに他ならない。その際に留意したことは、①それぞれの時代の大きな特徴が見渡せるようにしたいと考えたこと(当然限界はある)、②それぞれの時代で学校が対応を求められた課題が何であったのかが判るように記述すること、③とくにそれぞれの時代でどんな能力が育成すべき目標とされたのかを記述すること(戦後は学習指導要領に沿って)、等である。繰り返せば、教科書展をご覧いただいた方が、当該教科書がどんな時代に使われたのか、それを実際に使用された方がどんな時代に学校生活を送られたのか、それらを想起していただけたら、本稿の目的は一定程度達せられたことになる。
なお、近代の学校教育を受け入れていく基盤のひとつを形成したという意味で、近世の庶民教育の展開を冒頭に掲げたことを付記しておきたい。また、副題の「成立・展開・ゆらぎ」は、1980年代の「学校化社会の到来」を到達点と措定して記述を進めたために、全期間をその観点で括ってみたことによるものである。
本解説を作成するにあたっては次の文献を参考にさせていただいた。とくに木村元氏の近著には多くを学ばせていただいた。
(1)大田堯編著『戦後日本教育史』岩波書店、1978年 (2)岡津守彦監修『教育課程事典(総論編)』小学館、1983年 (3)水原克敏『現代日本の教育課程改革』風間書房、1992年 (4)木村元『学校の戦後史』岩波新書、2015年。
江戸期には、今日考えられている以上に、さまざまな教育機関が存在した。藩校、郷校、私塾、郷学、寺子屋など。このうち、庶民の文字学習をはじめとする学ぶ要求に応えて開設されたのが寺子屋である。寺子屋は、下層武士・医師・僧侶・神主などの有識者によって自宅を教場として任意に開業された。その数は、18世紀半ばから増加し、幕末に最盛期を迎える。開業数でみると、安政~慶応(1854~1867年)に4,293を数え(石川松太郎の研究)、幕末期には全国に25,000前後の寺子屋があったとの推定もある。このことは、都市部(商人層)だけでなく農村部にも、学習への強い要求があったことを示している。
寺子屋で用いられていた教材が、総称して、「往来」といわれるものである。往来は、もともとは往信・返信一対の手紙文を集めた手本を意味したが、拡大されて初歩的教材一般をさすようになった。往来には「語彙」「消息」「教訓」「歴史」「地理」「産業」「理数」などに区分される多種多様なものがあった。多くの寺子屋では、子どもは、まず「いろは」を習い、つぎに人名・地名などの単語を集めたものへと移り、その後にそれぞれの仕事に応じた単語を集めたものを学んでいった。また、単語学習と並んで、法令を集めたものや教訓書などを学んでいった。
本稿では、通説的理解とは異なって、明治初年からの70年間余を国民教育という術語で、大きく括ってある。その理由は何よりも、この稿が教科書展の解説の役割をも担うというところから来ていることが大きいが、次のような教育史的理解に立脚していることも事実である。日本の学校制度は20世紀初頭に制度的に確立したとされるが、それは人々が学校を受け入れたことを意味するわけではない。土方苑子の研究によれば、入学者が中退することなく小学校を卒業するようになるのは1930年代であること、また木村元の研究によれば、この時期は、人々が、強制されなくとも次の段階の学校(初等後教育機関)に進むという就学行動をとるようになり、進んで学校を受け入れるようになった時期だとされる。小学校が社会に定着するのが1930年代であるという理解に立ち、今回は、長いスパンで時期を画することにした。さらに、この期間を「国民教育」というきわめて包括的術語で性格づけた。それは、国家の要請を受ける形で、知識・技術のみならず、言語や歴史や道徳を共有する国民を形成する教育が展開され、その中核を担ったのが小学校であったという意味で用いている。もちろん、教育勅語の渙発(1890・明23年)の前と後では、教育の意味づけは異なっているが、庶民を近代国家の構成員に仕立てあげるという意味では同じカテゴリーで捉えることができるという立場をとることにした。
さて、学問の必要性を人々の立身や治産と結びつけて説いていた学制期とは異なり、教育勅語以後は、皇室を核とした「国体」に基礎をおくことが国民教育の基本理念とされ、小学校では「徳性」の涵養や儀式などを通じて、国家への帰属意識を育成することが殊更に重視された。そのための教育課程は、「国民的徳性ノ涵養」と「実用的知識・技術」のふたつの軸をもって構成されていたとされる(稲垣忠彦)。「小学校令施行規則」(1900年)を例にとれば、「国民的徳性ノ涵養」は、「忠君愛国ノ士気」を養う修身、「国体ノ大要ヲ知ラシメ国民タルノ志操」を養う日本歴史(後に「国史」に変更)、「本邦国勢ノ大要ヲ理会セシメ兼テ愛国心」を養う地理に、その役割の主要部分が担わされていた。そして、この道徳と実用から構成される小学校の教育内容の性格は、以後も引き継がれ、大正期・昭和期まで及ぶことになるのである。
満州事変(1931・昭6年)そして日中戦争(1937年~)を経て、日本の社会は戦時体制を強めていく。そして教育の戦時体制化も1937年以降本格化する。その教育改革に大きな役割を果たしたのが「教育審議会」(内閣総理大臣の諮問機関、1937~1942年)であった。国家総力戦体制の構築は、本来、社会のさまざまな領域で合理化を進めていくが、教育の領域でもいくつかの合理化方策が採択されていった(中等学校の一元化など)。
そのなかで大きな影響力をもったのが小学校にかわって創設された「国民学校」(1941~1947年)であった。「皇国ノ道ニ則リテ……皇国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とし、これまでの教育が実践的で有用な人間をつくってこなかったことを批判し、「心身一体」「知行合一」などをスローガンに掲げていった。「錬成」とは「児童ノ全能力ヲ錬磨シ、体力、思想、感情、意思等、児童ノ精神及ビ肉体ヲ全一的国民的ニ育成スルコト」(文部省説明)とされたが、「聖戦完遂」に向けて国民の精神と身体を丸ごと改造していくことが目指されたのであった。
教育課程においては、明治期以降の近代学校批判を伴って、教科の再編統合が進められていった。教科の下に教科目をおく構成がとられ、教科(教科目)は、国民科(修身・国語・国史・地理)、理数科(算数・理科)、体鍛科(体操・武道)、芸能科(音楽・習字・図画工作・家事裁縫)、実業科(農業・工業・商業、または水産。高等科のみ)に統合されていった。文化財を分析して要素別に彙類された内容を生徒に伝達するやり方では生きた力の育成にはならないとする、近代学校批判に立脚したものであった。
しかしながら、近代教育の克服という課題も、狂気じみた戦時教育体制の進行に伴って、人間形成の根本の問題を深めることにはつながらず、実際には、身体的訓練が横行することになったのであった。
1945(昭20)年8月14日、日本はポツダム宣言を受諾して無条件降伏する。そして、1951年まで連合国の占領下におかれることになる。この間に、後に「戦後教育改革」と呼ばれることになる教育全般の改革が、実行された。それは、戦争への深い反省を踏まえ、日本国憲法(1946年)と教育基本法(1947年)の理念に立脚し、6‐3制などの戦後社会における学校の新しい枠組みを構築したものであった。教育基本法では「教育の目的」がこう謳われていた。「人格の完成」を目的とし、「真理と正義」を愛し、「個人の価値」を尊び、「勤労と責任」を重んじ、「自主的精神に充ちた心身」をもつ、「平和的な国家及び社会の形成者」を育成すること。
この新学制のもとでの教育課程は、文部省による学習指導要領(以下、指導要領)によって、その枠組みが示された。ただし、47年と51年の両指導要領は「試案」とされていたことに注目すべきである。指導要領は、教師たちが子どもの現状に応じた教育課程を「自分で研究して行く(際の)手引き」であること、これが「試案」の意味するところであった。出発時の指導要領は、教育を子どもの経験を連続的に再構成する過程と捉える、経験主義に立脚していた。そこでは、子どもたちのさまざまな経験を学校で再構成して深めることによって、彼・彼女らを地域社会の問題解決に当たる市民へと育成していくことがめざされた。その中心教科が新設された「社会科」であり、教科書的な知識の教え込みではなく、何よりも現実生活の問題解決に取り組むことができるような学習指導をすることが目標とされた。
※1947年/1951年 ⇒ 学習指導要領(中学校)の発表・告示年度を示す(以下、同じ)。
教科書制度は1947(昭22)年から新しい検定制度が発足することになるが、戦後直後は国定制を存置したままの内容改革が進められ、いくつかの暫定措置がとられていった。まず、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の日本政府に対する指令(1945年12月)にもとづき、修身、日本歴史、地理の授業停止と教科書の回収・廃棄の措置がとられた。また、文部省は、二学期の開始にあたって軍事的教材を省略削除するよう指示したが(同年9月)、GHQの指令を踏まえて翌年1月に改めて、「終戦ニ伴ヒ不適当トナリシ教材」の削除修正を指示していった。「軍国主義乃至極端ナル国家主義的イデオロギーヲ助長スル目的ヲ以テ作成セラレタル箇所ハ削除セラルベキコト」というのが、GHQの指令であった(斜字体引用者)。国家主義的教材も削除の対象とされたのであった。
こうした経緯によって歴史上に出現したのが、いわゆる「墨ぬり教科書」(俗称)である。児童は、一学期まで使っていた「神聖」なる教科書に、教師の指示にもとづいて、墨をぬったり、切り取ったり、糊で貼り合わせて見えなくしたりするという、前代未聞の体験をすることになった。
「もはや戦後ではない」、経済企画庁「経済白書」がこのフレーズを用いて同時代認識を示したのが1956(昭31)年であった。この頃から日本は、高度経済成長期(~1970年代初頭)を迎えることになる。それに合わせて教育政策も、戦後当初の路線を転換させることになる。
政府は、1960年、向こう10年間に名目国民所得(国民総生産)を倍増させることを目標とする「国民所得倍増計画」を閣議決定した。そのなかで、経済成長のためには「人的能力の開発」が必要であること、そのためには中等教育を完成させることが急務であること、を強調した。さらに、教育全般に「能力主義」を徹底すべきことを求めていった。経済成長が国家・社会にとっての至上価値とされ、そこで必要となるさまざまな人材を供給するのが学校教育の役割とされ、ここに、戦後教育の明確な路線転換がはかられることになった。
この文脈での制度的施策が後期中等教育(高校教育)の多様化であった。普通科に進学コースと就職コースが設けられ、職業科では産業構造に見合った人材供給を進めるために多様化施策が推進されていった。政策と相補する形で教育の量的拡大も進行していった。高等学校に焦点をあてると、1955年には中学卒業者の半数しか進学しなかったのに、20年後の1974年には9割の者が進学し、高校は準義務制化していった。このことが意味することはきわめて重要である。それは「学校化社会」(木村元)の到来を意味したからである。従来のように、家業従事などを通して職業能力を獲得するルートにかわって、就学が就労の条件となる学校経由の就職ルートが優越化していったのであった。
指導要領は58年告示からその性格が変わる。それまでの「試案」の文字が消えて、この年以降「告示」という法形式がとられ、教育課程の国家基準としての「法的拘束性」が強調されていった。内容的には、産業化社会の技術革新に対応するために、系統的で科学的な教育内容が要請されるようになった。教科の背景となっている学問体系に軸足をおいた教育内容編成がとられ(学問ごとの成果に基づいて系統的に教育内容を配置)、それを順を追って効率的に学習する「系統学習」が強調されるようになった。69年告示では「教育の現代化」が強調された(とくに数学と理科)。「現代化」という標語で、現代科学の成果と科学的方法を重視し、高度で科学的な教育を進めることが目指されたのであった。ちなみに、総授業時数は戦後度々変更されているが、もっとも多かったのがこの69年告示であった(中学校で1190時)。
※1958年告示/1969年告示/1977年告示
日本の学校教育が複雑で対応困難な問題を抱えていることが露わになってきている。そうした事態が目立つようになったのは1990年代からである。いくつか挙げてみよう。
第一は、これまで自明視されてきたことを問い直すような事態(不登校が象徴的事例)の発生である。不登校児童生徒の出現率は1.17%の値を示し(2000・平12年)、以後一定化しているが、それは不登校児童生徒の減少を意味するわけではない。毎年13,000人前後が不登校となっているのである。くわえて、適応指導教室への通級や保健室登校など、「欠席」と「出席」の垣根自体が曖昧になってきている。このことは「誰もが学校に行かなければならない」という登校規範のゆらぎを示しているといってよいだろう。
第二は、子どもたちを学校に囲い込むことが困難になりつつあることである。情報化社会の進展のなかで有り余るほどの情報や知識に触れている子どもたちは、学校知識に特別の意味や価値を認める感覚がもてなくなっている、と見て差し支えないだろう。それはむしろ学習のためだけに組織された学校というリジッドな空間の「特殊性」を浮かびあがらせることになっているのかも知れない。学校の影響力が圧倒的なものではなくなっている状況では、子どもたちを学校に囲い込むことがきわめて困難性を帯びるようになってきているのである。
第三は、子どもたちのなかに育成すべき能力が大きく変化していることである。89年告示の指導要領では、「子どもが自ら考え主体的に判断し表現できる資質や能力」(「新学力観」)を育成すべきことが強調された。この流れは、98年告示(学校5日制の完全実施、教育内容の3割削減、「総合的な学習の時間」の導入など)でも「生きる力」の育成として引き継がれた。現在の08年告示は、そうした路線の変更のようにも見えるが、知識・技能を活用して課題を解決する「活用力」の育成が盛り込まれている点で、従来の路線を継承する部分があり、PISAが測ろうとした能力とつながる側面がある。この三点目はポスト産業化社会への変化とそれに沿った教育政策の転換といえる。
子どもたちの生活世界が大きく変化するなかで、学校のあり方を修正しようとする施策が展開され、これまで自明であった学校教育の基盤が大きく動揺していること、これが1990年代以降の現代日本の状況だといえよう。
※1989年告示/1998年告示/2008年告示